手術までの記録

この度、11/14~18まで臨時休業をとらせていただきます。

お客様にはご不便、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません。

何のための臨時休業かと申しますと、私、この度

 

肩の手術をします。

 

この手術の経緯…

そのスタート地点は約20年前まで遡ります。

 

怪我までの経緯と術前、術後、自主リハビリの経過、”復活”までの記録

そして、その時に感じた気持ちを残せたらと思い、投稿に至ったのでかなりの長文になります。

お時間のある方は御覧ください。

 

そして、これが今現在手術を考えている方、不安を感じている方

そして何か限界を感じている方の一助になれば幸いです。

 

それでは、腱板断裂の体験談の記録

はじまりです。

手術の原因

話は18歳の頃に遡ります。

 

アメリカンフットボールの練習中に首を痛めて右腕の神経を損傷しました。

その後遺症で右の肩甲骨が、翼のように浮き出る「翼状肩甲」という状態になりました。

幸い、日常生活やアメリカンフットボールでは特段影響はなく、これ以上の怪我に繋がることはありませんでした。

しかし、この後遺症が、後の私の人生を大きく変える”筋力トレーニング”にどういった影響を与えるのか未だ知る由もなく。

当然、当時は今のような医学的知識もなく。

そして、この後遺症が原因となり、右肩の”棘上筋”の腱という所を理学療法士になるまでに幾度も痛めることになります。

ちなみにこの棘上筋の腱というのは、一度切れたら勝手につくということはありません。

この時から部分的に切れている状態でしたが、手術をすると仕事ができなくなり患者様に迷惑がかかること。

そして、しばらくの間、筋力トレーニングができなくなるということもあり、私は手術という選択をとらず長年、保存の道(残存した部分の強化とフォームの改善)を選び続けました。

怪我との共存

詳細は割愛しますが、翼状肩甲の状態での筋力トレーニング(主に押す動作)は肩関節に多大な負担を与えます。

その負担の矛先が主に”棘上筋”です。

そのため、理学療法士となり医学的知識を得てからは、麻痺した筋肉の機能向上に努めました。

しかし、損傷した神経がもとの状態に戻ることはありません。

また、損傷した棘上筋の”腱”が勝手に修復することもありません。

 

しかし、そこで嘆いていても治るわけでもないし強くなるわけでもない。

 

肩甲骨がパカパカして大変ではありますが、その分は、徹底的にフォームに磨きをかけて、カバー。

そして、肩のインナーマッスルの強化と必要な柔軟性を確保することで上手く怪我と共存することが可能になりました。

この先のお話を読み進めていくうえで誤解が生まれないようにお伝えしたいことがあります。

健康の範囲内で行う筋力トレーニングは決して危険なものではなく、健康寿命を延ばします。

どんなことでも、やりすぎること、やらなさすぎることは身体に何らかの悪影響を与えます。

私にとっての筋力トレーニングは健康の範囲を逸脱した行為です。

健康のために自身の体重を遥かに越える重量を持ち上げる筋肉は不必要であり、むしろリスクが高すぎます。

私は、このリスクを承知した上で、重たいものを持つという行為をライフワークとし、仕事として必要だと考えた結果続けたということです。

繰り返しお伝えします。

健康増進レベルの筋力トレーニングは安全であり必須です。

筋力トレーニングは日常生活動作(座る、立つ、歩く、走る等)の質(技術)を上げ、それの源となる筋肉を増やす重要な行為です。

成長が意味すること

筋力トレーニングの初めの目的はアメリカンフットボールの競技力向上のため。

引退してからは”筋肉をつける”ため。

しかし私にとって、筋肉をつけるためだけでは動機づけとして弱かった。

そんな筋トレに対する気持ちが宙ぶらりんの時、私は筋力トレーニングの目的を決定づける”パワーリフティング”に出会う。

それが30代前半の時でした。

 

存在は知っていた。

しかし実際にパワーリフティングという競技を間近で見た時に、筋力トレーニングに対する情熱が燃えたぎったのを覚えています。

そこからは日々、スクワット、ベンチプレス、デッドリフトの重量を伸ばすために時間を費やす日々。

 

そして、年々扱う重量は増えていき、気づけばスクワット、ベンチプレス、デッドリフトのトータルが300kgにも満たなかった男が600kgオーバーになるまでに。

この成長に反比例して、当然ながら関節への負担は年々増していくことになりました。

芽生えた恐怖心

18歳から始めた筋力トレーニング。

20代は疲労知らず、体調はいつも万全。

30代に入っても、大きく変わることはなかった。

小さな異変に気づき始めたのが30代も半ばにさしかかった頃。

 

私の身体に色々な変化が見えてきました。

日々の高重量トレーニングによって、僅かな関節の歪みを感じるようになり、疲労が中々抜けないことが増えました。

そのせいか、まったく体調を崩さない男が体調を崩すことが増えるように。

そして20代、30代前半の時の身体機能と比較して明らかにパフォーマンスが下がっていく自覚も。

 

今まで通りの戦い方では、いつか(身体が)潰れる。

 

これからは今まで以上に”動き”を見直さなければ、無駄に関節を消耗する日々になる。

そして”動き”を意識した練習に時間を割いていこうと思い、実行に移ったのが、2013年2月頃。

 

しかし、それが改善できたとしても、生涯ベストを更新することが出来る身体的な期限は確実に迫ってきていると主観的にも客観的評価でも実感した瞬間でもあった。

 

それと同時に思ったこともあります。

それは、この高重量トレーニングが原因で肩や腰、膝などに致命的なダメージをうけて家族に迷惑をかけてしまったら。

そして、家族との時間が普通に過ごせなくなったら。

そういった恐怖心がトレーニングではじめて芽生えたのを覚えています。

40歳を節目に

しかし、その恐怖心が芽生えても、一度きりの人生。

私にとっては「生涯ベスト何kg挙げた」という記録は”私の歴史”の1ページに書き記す最重要項目です。

そしてその「生涯ベスト何kg挙げた」に挑戦できる期限は片手で収まる年数しか残っていないこと。

だからこそ、40歳まではこのスポーツを後悔がない所まで全力でやってみようと。

焦りや後ろ向きの気持ちではなく前向きに。

むしろ今までのトレーニング人生でもっとも熱が上がったときでもありました。

 

そこからは今までの練習量と比べたら重たい重量をもつ頻度は減りましたが、とにかく”動き”を意識したトレーニングに時間を割きました。

それに比例して、圧倒的に動きがよくなっていると実感しました。

もうひと花咲かせる

2023年8月9日

私は2年前からずっと更新することが出来なかった、スクワット225kgという記録がありました。

そして、この日に230kgにチャレンジすると決めていました。

 

そして朝目覚めた時に、私は「勝った」と根拠のない自信に満ち溢れていました。

まったく不安がなかった。

そして挑戦する夕方までの時間が、とてもゆっくりと流れている感覚がありました。

 

挑戦の時。

230kgを持っても、重さを感じない。

すでにベストは5kg更新した。

しかし、身体はまだいけると言っている。

「240kgまでもってみよう」

この時点でも不安も恐怖心もない。

完全にゾーンに入っていた。

240kg、成功

本当に嬉しかった。

「もう精神的にも肉体的にも無理かもしれない」

「もう生涯記録を更新することは出来ないかもしれない」

そんな気持ちを全て払拭して「まだお前なら出来るよ」と身体に言われているような感じがして嬉しかった。

 

もうひと花咲かせてみよう。

運命のとき

そこからは、大きな怪我や痛みを感じることもなくトレーニングを続けていく日々。

しかし、その時は突然来た。

最高の日から69日

 

2023年10月16日(月)

どこも不調がなく、怪我を疑うような予兆もない、いつも通りのトレーニング

スクワット中に右肩に突然の違和感

 

なにかがおかしい

 

そんな今までにない違和感だったため即座にトレーニングを中止

違和感の部位を特定するため、自身でいくつか整形外科テストを実施

もともと痛めていた部位である棘上筋には若干の違和感はあったものの動いたことで一先ず安心。

今回は、棘下筋、小円筋あたりに「チクチク」とした強い痛みがあった。

そこからは安静に。

 

しかし、10月20日(金)

その日の夜に痛みが増していることに気づいた。

怪我の代償

10月21日(土)

朝から肩の激痛で、腕を支えていないと歩くことも困難に。

しかし、今日は子供の運動会。

昔から痛みに強いことに定評があったと思いたい私も、あまりの痛みで、楽しみにしていた親子お遊戯に参加できず。

妻に任せて、私は撮影を。

 

それはいかんだろ。

 

私はこれから先、何度もトレーニングをすることが出来ても、子供の運動会に参加できるのはこの時だけ。

悲しく、申し訳なく、情けない瞬間だった。

(そのような感情だったため、あとで写真を見返したら、妻と子供達は沢山写っていましたが、私は一枚も写っていませんでした笑)

 

そして、帰りの道中

右肩は完全に終わりを告げた。

 

14時頃だったと覚えている。

 

こんな状態でも何とか生活できるレベルだった。

それが、右肩が脱臼したと感じるほど腕が垂れ下がり、しっかり腕を支えていないと激痛が走るように。

 

完全に切れた。

 

こうなるとどんな姿勢をとっていても激痛。

自分の腕の重さも仇となる。

立っていることも寝ていることも、姿勢を変えることも出来ない。

 

手術する時がきた。

 

この時点で私は手術が必要なことを確信した。

しかし、激痛ではあるがショックはない。

なぜならば、この時は遅かれ早かれいつか来ると覚悟していた。

そして毎年、いつ、どのタイミングで手術をしようか考える時があった。

それが皮肉なことに「40歳かな」とも考えていた。

 

少し早く来たな。

…もう少し頑張りたかった。

 

感傷に浸っている場合ではない。

次の行動は手術ができる病院探し。

しかし、あいにく今日は土曜日、すでに夜

日曜日に受診できる場所はあるだろうか。

私の基準

余談になります。

 

私が整形外科を受診する際に重要視している点は

①MRIがある

②手術設備がある

この2点です。

 

その理由は

・診断の確定

・手術を必要とした時

この2点以外の目的で整形外科を受診しないからです。

この2つの条件が揃っている施設が日曜日にやっているのだろうか。

何十年ぶり

あった。

 

しかし行ったからといって、すぐ手術ということはない。

1ヶ月前後の覚悟は必要だ。

それでも今の状況を話せれば、痛みで眠れない精神的疲労をほんの少しでも減らすことができる。

それに、痛みのピークは、せいぜい1~2週間くらいだろう。

 

10月22日(日)

夜が明けた。

いざ、何十年ぶりに整形外科を受診

 

結果は

「今日は肩の専門医がいない」

「MRIも予約で一杯」

「明日、来れる?」

と、Dr.に言われた。

 

がっくりしたが、わかってはいたのでそこまで落ち込むことはない。

それでも、明日は肩の専門医が来ること、MRIの予約が空いているとのこと。

 

精神的な負担は一先ず少し和らいだ。

精神、崩壊

10月22日(日)

その日の夜のこと。

20分寝ては、わずかな身体の動きで激痛、起きるの繰り返し。

ずっと唸っていたと思う。

あまりの痛みで、妻にお願いをしてテーピングで肩をグルグル巻きに固定してもらった。

痛みは少し和らいで、やっと寝ることが出来たと思ったら、今度は夢の中で顔の前を飛ぶハエを追い払おうとして、怪我をしている右手で実際に”ブン”

「ゔぉおおおお!」

と、痛みで叫んで起きる始末。

金、土、日とロクに生活も、眠ることも出来ず

痛みが和らぐ姿勢もなく、常に激痛

精神的にかなりきていた状態で、この所業。

激痛なのに夜中に笑ってしまった。

 

もう腕を切ってくれ

この時は本当にそう思ってしまった。

 

私の人生で”痛みで最も苦しんだ日”をあげるなら、現時点でこの日の夜が断トツNO1だと間違いなく言える。

夫として、父親として

10月23日(月)

今までは登山用のストックで右腕を支えていたが、それも激痛で出来なくなり、大きいぬいぐるみをタオルで丸めて脇の下に入れて固定

 

これで何とか動けそうだ。

 

そして、妻に運転を頼んで再受診

この日、運動会の振替休日で次男も一緒に来ていた。

先にMRIを撮る。

 

準備をしている時、MRIの部屋の扉が少し空いていたそうだ。

私が台に寝るのに右肩が激痛で唸りながら悪戦苦闘しながらやっているのを、その隙間から次男が見ていたらしい。

「ととは死んじゃうの?」と妻に言っていたと後から聞いた。

また、MRIは40分程かかるため、その間、散歩しに行ったがすぐに「もう戻ろう」と言っていたとも聞いた。

 

私の人生の根幹にある筋力トレーニング

理学療法の基礎を見直すキッカケになった筋力トレーニング

私が私であるための重要な行為

それが、筋力トレーニング

 

その筋力トレーニングで、家族にこれだけの迷惑をかけてしまった。

 

痛みで抱っこも出来ない。

痛みで一緒に遊ぶことも出来ない。

痛みで一緒にお風呂に入ることも出来ない。

 

筋力トレーニングが出来ないことより、子供達との時間がなくなっていく事が遥かにきつかった。

MRIの40分間

夫として父親として、トレーニング人生をじっくり考える時となった。

思わぬ出会い

そして、はじめてのMRIが終わり、診察室に呼ばれるのを待つ。

 

「どうぞお入りくださーい」

試合開始のゴングが鳴った気がした。

 

診察室に呼ばれて、最初に目に入ってきたのが下の画像

「やっぱりか」と小さく声に出る。

 

そうこうしていると、あとからDr.がやってきた。

「どうしたのー!!?」

と元気に登場。

 

あ、この感じ好き。

 

基本的に病院に元気な人は来ない。

だからこそ、医療従事者は患者様の不安な気持ちを少しでも解消できるように、時には寄り添い、時には励まし、時には活を入れる、そんな努力が必要だと私は思ってリハビリ業務に従事してきた。

私が患者様の立場になった今だからこそ、その立場として言いたいことがある。

 

 

私は医療従事者の患者様に対する医療接遇に疑問をもっています。

挨拶
表情
態度
言葉遣い

医療従事者はなぜかこれが悪くても社会的に許されている(許容の範囲が広い)気がしてなりません。

それが許されているのはなぜかと事あるごとに考えていました。

それは、患者様の気持ちとして「お願いしている立場だから」「やっていただいている立場だから」という気持ちがあるからなのだろうか。

そして医療従事者はその気持ちに甘んじて「お願いをきいてあげている」「やってあげている」という気持ちから医療接遇が乱れていくのだろうか。

現場でリハビリ業務に従事していた時からこの医療接遇について何かと衝突することがあったため、必要以上に感じてしまう部分もあるのかもしれません。

捨てる神あれば拾う神あり

だからこそ、語弊はありますが、確かな腕より元気な声と人柄

私はそれだけで信頼します。

 

「どうしたのー!!?」

そのハツラツとした元気な声とマスク越しでもわかる笑顔

瞬時に私というキャラクターを見抜いてラポール形成(信頼関係)を構築したこの先生を私は開始数秒で信頼した。

この先生に手術をお願いしたいと。

 

診断としては、棘上筋は断裂、その他の部位にも不全断裂の疑いがあるとのこと。

 

その後は、私の仕事のこと、妻や子供のことなど、将来を見据えた計画を立案していただき、紆余曲折しましたが今回の臨時休業期間に手術することとなりました。

泣き言を言うな。理学療法士だろ。

どれだけ痛みでのたうち回ろうと、これでも私は理学療法士

痛みでまったく自動運動(自分の力で身体を動かす)が出来なくても、左腕で右腕を他動的に動かしたり、テーブルや柱で右腕を支えて関節周りが固くならないように、痛みのない範囲でストレッチを毎日行っていた。

また、不動による浮腫を予防するために、ハンドグリップで握力を鍛えたり、肘の曲げ伸ばし運動をしていた。

 

手術部の身体機能は手術後の予後に大きく影響する。

だからこそ、私は受傷した日から将来を見据えてトレーニングをしていた。

 

そして、10月25日(水)の夕方から10月26日(木)にかけて、あれだけ激痛で動かせなかった肩が、簡単な動きなら出来るところまで痛みが軽減。

 

峠はこえた。

 

受傷した日が、10月16日(月)

症状が悪化した日が、10月20日(金)

症状が落ち着いた日が、10月25日(水)

 

しかし、痛みが引いただけで、切れた腱は絶対に勝手にくっつかない。

根本的には何も良くはなっていない。

 

だが、痛みが引いた今

反撃の狼煙をあげる時がきた。

反撃の狼煙

痛みが引いた25日(水)夕方

右腕以外の部位のトレーニングを再開

右腕は慎重に、愛護的に、痛みなく出来る動作を探してトレーニング開始

終始、鳥肌が立っていた。

身体を動かせる喜び

筋肉に負荷をかけられる喜び

 

ノー負荷、ノーライフ

 

そうなれば、今度は手術までの目標作り

生半可な目標では私が許しても身体が許さない。

 

今日が10月25日(水)

入院が11月14日(火)

トレーニングが出来る最終日が11月13日(月)

残り20日か。

 

私の精神の一つ

出来ないことがあっても泣き言を言うな。

今出来ることで最大の効果(結果)を求めよ。

そうすれば自ずと道が開かれる。

 

出来ないことは腕を積極的に動かすこと。

元気一杯なのは下半身。

 

バック・スクワットやブルガリアン・スクワットは肩に負担をかけるが、SSBなら出来る。

バック・スクワットのベストが240kg

SSBはバック・スクワットよりマックス重量が15~20%程度落ちることを考慮すれば、SSBで190~200kgくらいを持ち上げることができれば、バック・スクワットのベストに負けないくらいの記録が残せる。

どうせやるならこれくらいやらないと張り合いがない。

窮鼠猫を噛む

よし決めた。

手術日までにSSBで200kgを目標にする。

 

先生にも言った。

「先生、手術日までに手術が必要ないくらい身体を仕上げてきますよ」と。

「よし、わかった。じゃあ俺もしっかり手術を成功させるから」と固い握手をした。

 

怪我をして、落ち込むことがあっても絶対に腐ってはいけない。

どこかで自分を奮い立たせて、何でもいいから小さくても行動にうつす。

追い詰められた時の行動こそが後の結果を決定づける。

 

今、私を奮い立たせているのは理学療法士としての私ではない。

「追い込まれた時の俺は強いぞ」

「もう腱は完全に切れているんだ。これ以上悪くなりようがないだろ。やれ」

と、理論もへったくれもない、心の声が私を奮い立たせた。

 

手術日までの20日間

筋肉、筋繊維ひとつひとつと向き合うように

「この動きは痛くないか?」

「大丈夫、これなら出来る」

と、まるで身体とコミュニケーションをとるように

一箇所、一箇所、丹念にトレーニングをしていった。

生まれ変わるために

そして本日、11月13日(月)

右腕は特定の動きや負荷には耐えられないが、かなりトレーニングのレベルは上がっていた。

 

ごらんの通り、腕立て伏せを出来るところまで。

(絶対にやってはいけません)

胸と腕が歓喜しているのがわかる。

今は、些細な筋力トレーニングでも、出来ることだけで喜びを感じる。

 

そして、本日、全身全霊をこめてSSB200kgに挑戦。

結果は193kg。

あと7kg足りなかった。

それでも後悔はない。

私は筋肉にこれまでにない感謝をした。

無理を聞いてくれてありがとう。

今、私は術前のトレーニングを全て終え、ここで文字を打っている。

 

これで後悔なく、自信をもって明日、手術に挑める。

先生、あとは頼みます。

In The Gym

これで手術前、最後の身体に負荷を与える時間が終わった。

しかし、私は通常1~2週間入院を必要とするこの手術も、翌日退院を希望している。

 

「なんでそんなに急ぐんですか?」

と、先生や看護師さんに言われたが、私は急いでいるわけではない。

私が今すべきことに集中しているだけだ。

それは、身体を治して家族のもとに、お客様のもとに戻ること。

 

私は、私の力でこの切れた腱を骨につけることは出来ない。

これは先生の力を借りるしかない。

しかし、肩の手術が無事に終わったら、今度は私の番だ。

タスキを受け取る準備は出来ている。

だからこそ、私がいるべきところは病院ではなくジムだということ。

On Your Mark

肩の手術が終われば3~4週間はギプス固定になる。

その間は指や手首、肘の愛護的な運動

そして無理のない範囲で他動的にストレッチ

ギプスがとれたら、負荷をかけずに自重で少しずつ動かしていく。

これで2~3ヶ月はたつだろう。

それでも自分でやれることは沢山ある。

そのときには右腕以外の筋トレはとっくにスタートしている。

そうでなくてはならない。

 

今回の手術で、私は沢山のチャンスを貰うことが出来る。

そして、この手術を活かすも無駄にするのも自分次第。

 

11月13日(月)夜

準備体操は終わった。

明日は手術

それでは、行ってきます。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

術後の投稿は今回の投稿のように両手でスムーズに打つことができないので、だいぶ後になるかもしれませんが、私の歴史の記録として必ず残しておきたいことなので出来る限り早く投稿します。

さいごに

受動的な気持ちでいる方に、肩のリハビリは勧められません。

なぜならば、予後を最終的に決めるのは日々の自主トレーニングだからです。

週に1、2回のリハビリ”だけ”でよくなることは絶対にありません。絶対です。

毎日10分でも自主トレーニングに励む精神と行動が予後をより良くします。

そして、その証明として私自身がモデルケースとなります。

私の予後を楽しみにお待ち下さい。

 

【つづき】入院1日目(手術まで)の記録

投稿者プロフィール

Yutaro Masuda
Yutaro Masuda理学療法士
理学療法士として幾多の臨床経験を経て2020年に『RE-ALL FITNESS』を設立。
もともとは体重100kgオーバーの大食漢。腕立ても腹筋も出来ない男がアメリカンフットボールに出会ったことをきっかけにトレーニングを始める。やめてからはパワーリフティングに転向し、トレーニングに明け暮れる2児の父親。